ギターや料理や労働、姿勢だとか歩き方だとか、自分一人でできることは、技術として磨いていけるもの、後から身に付けられる要素があるものとして、意識的に知識や道具に興味を寄せて、試してきた。
所詮は自分という枠の中でのレベルアップだから、どの程度まで到達できるか見えてしまっている
かけられるお金や時間に制限はあるし、人様と比べるとただ苦しいし、この程度かとがっかりもする。
それでも、続けていれば何かしら身に付いてくるし、できる範囲であれこれ考えてやっていくと、なんだかんだQOL的なものが上がっている気がする。
何もかも自己満足だし、いつか技術では補えないほど肉体は加齢で衰えて、その技術自体も再現できなくなるのかもしれない。それでも、確かに積み重なって残っている気がする。
対して、他の人と関わること、人との関わり方については、不快感を与えるような振る舞いを極力しないようにとか、プラスよりもマイナスをいかに減らすかみたいなことばかり考えてきた気がする、
コミュニケーションや、話し方、聞き方なんかのハウツー本は色々読んだ。
気にしない方法とか、気持ち的に強くなる方法とか、あれこれ読み漁った。
でも、人付き合いは、結局相手次第のような気がしていた。好かれるのも、嫌われるのも。
まだかじる程度にしか読めていないが、「愛するということ」にも、多くの人は、愛を”愛される”という受動的な面からしか捉えていない…というようなくだりがあった。
もし愛するということが技術であるならば、自分にもそれを身に付けて、向上させることができるのだろうか。
資格の勉強みたいに、身に付けるべき項目リストや、試験科目の一覧があるわけではないが、現在地の把握と目的地の設定が必要だ。
愛するという技術は、相手に「愛されている」と感じてもらう技術とも言えるだろうか。自分が思う愛情表現を押し付けるだけなら、ただのひとりよがりだ。
相手の気持ち、相手が望むこと、して欲しいことを知ること。自分の気持ちではなく、相手を見ること。
現在地は、残念ながらひとりよがり町自己満足一丁目一番地だ。
感情のコントロールが大きな課題だと思う。
相手が本当に言いたいことは何か、相手が感じていることは何かに注目できるよう、相手の振る舞いや言葉に巻き込まれず、どんと構える。
それには、その瞬間瞬間、自分の状態に気が付がついて平常心や冷静さを取り戻さなければいけない。
今、怒りを感じている。悲しい。モヤモヤする。
これまでは、はっきり自覚する前に、何らかの行動…例えば、怒りに任せて言い返すようなことをしてしまっていたと思う。沸点が低すぎる。それを遺伝だから、性格だからと言い訳していた。
自分を常にモニタリングするような感覚。それが途切れてしまうときが怖い。
途切れてもすぐにそれに気がつくこと、自分の乱れた状態に気がつくこと。
遅すぎるかもしれないけど、愛するという技術を身に付けられるように試行錯誤していきたい。
愛するということ/エーリッヒ・フロム
本

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