もしものせかい/ヨシタケシンスケ

何度読んでも、涙が滲んでしまう。

何度も何度も、もしもを願った。叶わなかった。
それでももう一度と立ち上がって、手を伸ばして、また叶わなくて。
あの子は好きな人に愛されて、他のあの子はほしかったものを手にして嬉しそうにしているのに。

たまたまだった、誰にでも起こりうることだったし、あまりにもありふれたよくあることだ。
でも、誰でもいいなら私でなくたっていいではないか。そろそろ私の番が来たっていいじゃないか。
なぜ、なぜいなくなってしまうのか。
掴んだと思った温もりが、いつまでも残って消えない。寂しいなあ。

この絵本を読むと思い出すのが、よしもとばななの「おかあさーん!」」の一説だ。

“でもどこか遠くの、深い深い世界で、きっときれいな水辺のところで、私たちはほほえみあい、ただ優しくしあい、いい時間を過ごしているに違いない、そういうふうに思うのだ。”

脳は、現実と想像の区別がつかないという。
決して空想に生きようというわけではないけれど、もしもの世界があって、そこに生きる自分は一緒にいたかった人と一緒にいて、くつろいで、ただただ穏やかに過ごしているのだと思うと、なぐさめられる気がする。愛された自分、一緒にいることができた自分が存在している。
同時に、もしもの世界にいるのが、この現実の自分だったらよかったのに、と思ったりする。

それだけ一緒にいたいと思っていたんだよな。
そんな気持ちを持てたこと、それだけ大切だと思える存在に出会えたこと自体が、幸福なんだろう。
もう関わることも目にすることも叶わなくても、この現実の世界にずっと存在している。

それは素晴らしいことのはずなのに、未熟な自分には残酷だ。
ずっとずっと欲しくてたまらなかったものを、一瞬だけ味見を許されて、その味を知ってしまった。
想像以上だ、とうとう私にも与えられるのだと思ったそれを取り上げられ、ガラス一枚隔てて目の前に置かれる。たまたまそれを見つけた通りすがりの他の誰かが、嬉しそうに頬張るのを、指をくわえて見ているしかないような。

これは、所有欲とか嫉妬とか独占欲とか、そういう感情のせいなんだろうか。
そばにいてほしかったんだよな、ただ。
罰とかそんなんじゃない、最初から、私のものではなかった。ただの勘違いだったのに。
誰かにとられるくらいなら。ああ、天城越え。。
一瞬すれ違った。交差点みたいに。

それでも、それでも祝福を。
この地球にたくさんの大切なものをしまい込んで。
全ては私のものではない、けれども私のものでもある。
さあ、あの月を君に贈ろう。

何かが少し違っていたらあったかもしれない、いくつものもしもの世界は、何度もなぐさめをくれる。
思い出すたびに、確かに存在を感じる。だからずっと失わずに済むのだろう。

時々は、つらくて忘れたいとも思ったりする。でももう、知る前には戻れない。
もしもの世界は私の一部で、これからも涙を流すたびに膨らんでいくのだろう。
いつか死ぬ時にきっと、ただその存在に感謝をするのだと思う。

だからまだまだ、しぶとく歩いていこう。
まだ、自分を諦めたくない。

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