そうめんが食べたいなあ、と思って乾麺のコーナーに行ったら、そうめんの隣に細いうどんがあった。
茹で時間は、そうめんの5倍。
迷った。つるつるとそうめんをすすりたいと思っていたけれど、細いうどんはつるつるすすれるうえに食べ応えがありそうだ。
結局うどんを買った。
めんつゆを作った。
小鍋に醤油とみりんと水、昆布とかつおぶしを入れて、弱火にかける。
鍋の縁が沸いてきたら火から下ろし、粗熱がとれたら冷蔵庫へ。
本当は濾すのだけれど、昆布だけ取り出して、もったいないからかつおぶしごといただく。
取り出した昆布は刻んで、キャベツと小口切りにした唐辛子、塩と一緒にポリ袋に入れて揉み込み、浅漬けにした。
昆布にちょっとまとわりついた鰹節の風味が、いい感じだった。
なすと豚肉で味噌炒めにしようと思ったけど、なすだけにして、豚肉は茹でてうどんと合わせることにした。
大根おろしと茹でた豚肉をうどんにのせて、めんつゆをかける。
ちょうとテレビのCMで、麗しき上戸彩殿がそんな感じのうどんを食べているのを見てしまったのだ。
ほんの少し余っていた生姜もすりおろせば、さっぱりしていい感じだろう。
…私にとっての人生とは、こういうことだ。作って食べて寝て。
ただの日常生活の、ちょっとしたこと。小さなことで、できている。
音楽も読書も好きだけど、必須ではなくて、おやつのようなものなのだと思う。
おやつは大好きだから、ないと困ってしまうけど。
寝て起きて、労働して、洗濯して掃除をして、買い出しをして、ご飯を作って食べて、散歩して読書して、おやつを食べて。
ただ静かに暮らしたいけれど、それだけでは向上心がないとか、なんてつまらないとか、そんな風に見なされる。
ただ生きているだけで、自分にとっては刺激が多過ぎる。
だから、あえて刺激を求める必要がないのだと思う。
たまにはどこかへ出かけたりもするし、人気が少ない、自然を感じられる場所では緩む感覚があるからハイキングなんかは好きだ。
でも翌日が休みの日にしようとか、タイミングや諸々を考えてしまう。
旅行は好きだけど、何度も何度も迷って、えいやと一念発起しないと決められないし、
大事な仲間と会うのは楽しみだけれど、翌日のことを考えると早く帰らねばと思ってしまったりする。
そういう自分がつまらないなあと思うけれど、これも自分の性質なんだろう。
人から見れば退屈で変わり映えのない毎日の中に、自分にとっての良いことも悪いことも、たくさんある。
それを見つけたり、避けたりするので精一杯だ。
人にとってはまったく意識にものぼらない、気に留める必要がないようなものばかりなんだろうと思う。
毎日の生活そのものだけで、私にとっては十分に生きているに等しい。
本当は多分ずっと、やりたいことなんてなかったのかもしれない。
音楽も、もしかしたら。
結果として仲間と出会えたし、良いことも悪いことも、経験という積み重ねが自分を変えてくれたとは思うけれど。
ただ愛されたくて、許されたくて、でもそのままの自分ではダメだと思ったから、あれこれ行動してきた。
振り返ると、七転び八起きどころではない。懲りずによくやったなあ。
自分の性質も理解できていなかったし、ただひたすら若さゆえに行動できた。
若さゆえに、自覚のない愛されたいという欲求も強かったのかもしれない。
それを持て余して、エネルギーに変えていたのかもしれない。
心のどこかでは無理だろうと感じながら、僅かな可能性を無理やりに見出そうとしていた。
手当たり次第、できるはずもないことや性に合わないことにも手を出して、
できなくて、打ちのめされて、自分という事実から逃げて逃げて、どこにも行き場はなかった。
自分以外の何かになることはできなかった。
何も手に入らなくて、自分だけが残った。
もがいてわめいて泣いてのたうち回って、でも誰かが涙を拭ってくれることも、
感情を受け止めてくれることもなかった。
どんなに待っても、誰も来ない。どんなに呼んでも、返事は返って来ない。
いつか誰かと本当に繋がりたいと願うのなら、どんなに時間がかかっても立ち上がって歩き出すしかない。
全てが無駄だったような虚無感と、それでもいつかはとまだ願う気持ちとがある。
立ち上がってもう一度歩いたって、結局どこにも辿り着けないだろうという諦め。
ただ静かな毎日を望みながら、それでもどこかで諦められない心残り。
自分で自分を愛するよりも、誰かを愛することの方が尊いと、誰が決めたのだろう?
誰かに愛されること、大事にされることこそが自分の価値だと、どうして言えるのだろう?
本当は、誰かと心から繋がりたかったし、愛し合いたかった。
でもそれが叶わないのならば、もう自分で自分を愛して大事にするしかない。
フロムが言う、愛するということが意志であるならば、自分を愛すると決める、それもきっと愛なのだ。
愛されていること、守られていることに無自覚な人は、何だその一人遊びはと笑うかもしれない。
さぞ滑稽に見えるかもしれないし、そもそも何かをしているようにも見えないだろうけど。
でも、誰かや何かを使って自分を満たすのではなく、自分で自分を愛そうとするのは、きっと強さだ。
望んでいた強さとは全然違うけど、確かに強さなんだと思う。
こんなものほしくなかった、もっと違うのが良かった、みんなが持っているようなのがほしかった。
でも、私に与えられたのはこれなのだ。
しがみつくようにしてぬいぐるみを抱いて横になると、自分の鼓動を感じる。
全力でぬいぐるみに寄りかかって、それでもぬいぐるみは黙ってすべて受け止めてくれる。
むぎゅむぎゅと押し潰されながら。
…いや、大事だから気をつけてちょっとソフト目にはしているけれど、
こんな風にできるのは、こんなことを許してくれるのは君しかいないんだ、すまない。
3歳児ならばいざ知らず、この重いのを他人に寄りかかってどうこうしてもらおうというのは、
きっと人生を放棄するのに等しい。応えてくれる人もいないけれど。
そんな風に思うのも、自分で自分を愛する力、自分を癒せるような力がちゃんとあるということなのだろう。
クーラーをつけて、ぬいぐるみと転がってぼんやりする。
肌の一部がぬいぐるみと触れ合っていると、安心する。
冷静になって状況を考えると全く笑えないけれど、誰に遠慮する必要もない。
何もしなくても、何もできなくても、このままの自分でただ存在していることを自分に許す。
安らいだ気持ちで、ただ息をしていればいい。
家というのは、本当はこんなにも安心して過ごせる場所なんだよなと思う。
もう全ては過ぎたことだけれど、子どもの頃から家は安心して過ごせる場所ではなかった。
どうやらそんな家ばかりではないこと、でも皆家族に対しては色々思うところがあること。
全てが過ぎたことで、もう何もかも遅すぎるけれど、よくわかった。
親も、自分も悪くない。ただ、全てはたまたま。
たまたま私だったというのなら、私じゃなくたっていいのにと独りごちたくもなるけれど。
もうこれ以上、与えられなかったものを追いかけて絶望する必要はない。
求める気持ちを否定することはないけれど、愛は自分の中にあるのだ。
誰かが向けてくれた優しさ、想いだって、確かにあったのだから。
ほんの一時だけでも、きっと愛を交換できたのだから。
通り過ぎてしまったからといって、もう二度と触れられないからといって、なかったことにしなくていい。
ちゃんと、残っている。
いつかのその日が来るかもしれないという願いを、心の片隅に置いていていいのだ。
捨ててしまいたくなるときもあるけれど、捨てたって、きっと気になって仕方なくて、
またもぞもぞと拾いに戻るのだろうから。
まだもうしばらく、ぬいぐるみと転がって、ただぼんやりしていたい。
何もせずに、ただ。
—–
ブログタイトルはBUMP OF CHICKEN/魔法の料理〜君から君へ〜 より


コメント